2010年05月26日

ラジオ深夜便/アインシュタインと祖父の友情




ラジオ深夜便の6月号を買いました。その中で感動的な記事があったのでここで紹介させていただきます。( ^ー゜)b


内容は『アインシュタインからの墓碑銘』を出版したエッセイストでノンフィクション作家、比企寿美子さんへのインタビュー。2010年3月14日に放送されたラジオ深夜便「こころの時代」、<戦争と平和〜アインシュタインと祖父の友情>を記事にしたものです。


☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


徳島県美馬市、光泉寺に比企さんの祖父、三宅速(はやり)とその妻、三保が眠っている墓がある。その墓石にはアインシュタインが三宅の死を悼み贈った銘が刻まれている。そこには「ここに三宅速とその妻・三保が眠る。彼らはともに人類の幸せのために尽くし、ともに人類の過ちの犠牲になって逝った」とある。


三宅速は京都帝国大学付属福岡大学校(現・九州大学医学部)の初代外科教授。


三宅速とアインシュタインは、フランスのマルセイユから日本に向かう船に偶然乗り合わせる。三宅は7ヶ月に及ぶ世界の医療施設を視察を終えて、アインシュタインは改造社という雑誌社の招きで日本へ講演旅行に向かう途上という状況だった。

二人が知り合い親しくなったきっかけは、アインシュタインが船上で具合が悪くなり、三宅が診察をしたことだった。


(比企)
祖父がご夫妻の船室にうかがうと、アインシュタイン博士はとても心配そうにおっしゃったそうです。

「先生、私はがんになってしまったのではないかと思います。この旅を引き受けたことを大変に後悔しています。どうしたらいいでしょうか」と。症状を聞くと、お通じが滞り、下血もあるということでした。祖父は丁寧に診察し、「船旅で少々運動不足になられているだけのようですから、安心してください」と博士に伝えています。

祖父はその後も何日かお部屋にうかがって治療さしあげています。ドイツで医学を学んだ祖父は、博士とさまざまなお話を楽しんだそうです。博士は症状もすっかり回復されて、神戸に着くまでの間、祖父と親交を深めました。



船が神戸到着の1週間前、アインシュタイン博士のノーベル賞受賞の知らせが入って日本でも大変な騒ぎになった。そして船上で「お宅へお礼にうかがいたい」の約束通り、福岡の三宅家へエルザ夫人とともに2時間ほどくつろいでいったとのこと。


(比企)
帰りがけ、当時18歳だった私の父が、玄関でご夫妻のお靴を揃えました。「ノーベル賞を受賞したほどの方が、こんな粗末な靴を履くのか」と思うような靴だったそうです。父がゆるんだ靴紐を結び直そうとすると、紐がプツンと切れてしまったんですね。慌ててなんとか結んでさしあげたのですが、それを見ていた博士が、「きみはいい子だね」と、父の頭に手を乗せてくださったそうです。この出来事に感動した父は以後発奮して、医学部へ進む勉強を始めたと聞いております。




やがて世界は第2次世界大戦に突入。比企さんの父は岡山大学の医学部教授になっていた。祖父はすでに第一線を退き、祖母と芦屋に住んでいたが空襲が激しくなり、父のいる岡山へ移った。ところがその岡山も激しい空襲に遭う。父の住まいもいよいよ避難しなければならなくなり、かねてから申し合わせていた通りに避難が始まった。45年6月29日、B29が140機来襲し死者1737名。その中に祖父母も含まれることになる。


(比企)
まず、同居していた大学生のいとこが幼い私を負ぶって駆け出し、それに母と中学生の兄が続きました。そして、高齢の祖父母は父が連れて逃げることになっていました。(中略)

父は、別々に命からがら逃げた家族に出会おうと茫然とさまよううち、偶然にも私の目の前を通りかかり、私を見つけてしっかりと抱き上げてくれました。(中略)

「早く逃げましょう」と言う父に、「年寄りだから、お小水に行きたい」と言って、二人は家に戻ったのだそうです。八十歳近い祖父は白内障でとても目が悪かったし、祖母は腰が弱くて一人では歩けない状態でした。空襲の混乱の中、父は二人をどうやって連れて逃げようか迷ったはずです。でも、「お前は先に逃げろ。私たちはあとから行くから」と祖父は言ったそうです。その言葉が、父の背中を押したのではないでしょうか。祖父母はきっと、覚悟の上で残ったのではないかと思います。母によると、「こういう時代に自分が生きていくのは若い人たちの負担になるから、私はここで死にたい」と、祖父は何度も言っていたそうですから。




父は、自分が岡山に呼んだばかりに祖父母を空襲で亡くしたという思いを抱きつづける。そんな父がアインシュタイン博士に連絡を取った。


(比企)
終戦の2年後、博士がアメリカのプリンストン大学にいらっしゃることを知った父は、祖父母のことをお知らせしたい一心で、博士に手紙を書いております。その手紙で父はまず、祖父母が空襲で亡くなったことを報告し、併せて、「あなたさまに両親の墓石に刻むお言葉を賜ることができましたら、両親はいかばかりか喜び、満足して永眠することができるかと思うのです」とお願いしたのです。何事にも控えめな父にとっては勇気のいることだったはずです。そして、手紙を受け取った博士は、即座に追悼文を送ってくださいました。(中略)


アインシュタイン博士に手紙を送った同じ年、父は祖父が初代外科教授を務めた九州大学第一外科教室に第4代の外科教授として赴任しました。その後九州大学には65歳まで勤めて、94(平成6)年に93歳で亡くなりました。「私の墓は父の墓の後ろに目立たないように、父より小さな墓石で建ててほしい」と。そして、「ああ、これでお父さんのうちに帰れる」と何度も呟きました。あの大空襲で死なせてしまった老いた両親への贖罪の気持ちが、父の心の中で消えることはなかったのでしょう。


祖父が引退後の終の棲処として芦屋に家を建てたのは27(昭和2)年、61歳のときでした。そこで祖母とほんとうに平和な生活をしていたのです。けれどもその家も何もかも、命さえ根こそぎ奪ったのが戦争だと私は思います。そして父の心に、結果的には自分が老いた両親を死なせてしまったという辛い思いを残した。アインシュタイン博士も、自分が大統領に進言したばっかりに、敬愛する国・日本に原爆が落とされたという辛い思いを持ち続けたわけです。

すべての人に重く、辛い思いを残すのが戦争だと思います。今、イデオロギーや政治には関係なく、人を殺す武器を捨てて、共に手を携え、助け合っていく時代なのではないでしょうか。




この放送は聞いていませんでしたが、アインシュタインと日本の医者との友情というちょっと意外な、でもとても素晴らしい話を知りました。この本、ぜひ読んでみたいと思います。

アインシュタインからの墓碑銘










posted by 酔ing(すいんぐ) at 23:55 | ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | ラジオ深夜便 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。