とても感動的な 内容だったのでこのブログでも紹介させていただくことにしました。
太平洋戦争末期に群馬県太田市の中島飛行場を爆撃しようと付近を飛んでいたB29爆撃機2機が空中接触して墜落事故を起こし、搭乗員23人が亡くなったそうです。当時の状況からすれば、敵国の戦闘機が墜落したのは日本にとっては "いいニュース" だったに違いありません。
しかし戦後60年に当たる2005年、偶然手に入った墜落機の写真の存在を知った横浜市の住人が米国の遺族を探し出したことがきっかけで、群馬県邑楽町(おうらまち)の住民と搭乗員遺族との交流が生まれ、亡くなった23人の慰霊碑が建てられるまでになりました。この20日には除幕式が行われ、住民や遺族、米軍関係者が出席する予定とのことです。
記事の内容は以下の通りです。
太平洋戦争末期に米軍の爆撃機「B29」2機が墜落した群馬県邑楽町の住民らが、死亡した搭乗員23人の慰霊碑を墜落現場近くの寺に建立し、20日に除幕式を行う。戦後60年を機に始まった搭乗員の遺族との交流がきっかけとなった。当日は、住民や遺族、米軍関係者ら約50人が出席する。
慰霊碑や除幕式は、同町秋妻の岩崎治雄さん(87)や、同町にある清岩寺の木崎伸雄住職(80)ら約10人が計画した。碑は石製で縦1メートル10、横1メートル50の大きさ。「ここ秋妻の空に散った23名の勇士の御霊みたまに哀悼の誠をささげるとともに日米両国の友好と世界の平和を希求します」との文言を、犠牲者の名前と共に刻む。費用は地元住民で負担した。
墜落した2機は1945年2月10日、軍用機を生産していた同県太田市の中島飛行機の工場などを狙って飛来。空中で接触し、同町秋妻に落ちた。
岩崎さんは、墜落機の写真を保管しており、戦後60年の節目にあたる2005年に地元公民館で初公開した。写真は、同町に住んでいた工員の栗田国利さん(故人)が撮影したもので、誰にも見せないまま70年頃、親しかった岩崎さんに託したという。
この墜落を調べていた横浜市の元自動車販売業新井勲さん(78)が写真の存在を知り、「家族の最期は誰だって知りたいはず」と米国の遺族を探し出した。岩崎さんも協力して写真の複製を送ったところ、感激した遺族から、亡くなった搭乗員の写真などが届いた。岩崎さんらは3年前、この写真などを展示して慰霊祭を初めて開催した。
その後も、遺族から「私は父の顔を知らない。秋妻に行きたい」などと手紙が寄せられ、地元住民らは「アメリカ人も戦争の犠牲者。遠くの遺族はなかなか来られないだろうから、私たちでまつろう」と話し合った。木崎住職が「宗教の違いを超えて供養したい」と申し出て、境内に碑を建てることが決まった。
碑の建立を知った米軍横田基地は、「日本以外の国で、敵の兵士を敬い、慰霊する行事はないだろう。日本人の高い品格と日米の友好の絆を表すもの」(広報部)と歓迎。当日は、米空軍の音楽隊の演奏に合わせて国歌を斉唱し、祈りをささげるという。(2013年3月17日 読売新聞)
以上の内容の記事です。
「家族の最期は誰だって知りたいはず」と米国の遺族を探す新井さんの思いと行動力には感心させられます。日本からこんな申し出を受けた遺族家族はさぞ驚き、感激したことでしょうね。
その後2010年には写真の展示や慰霊祭を行い、今回慰霊碑建立には地元の住民がその費用を負担したというのも素晴らしいことだと思います。
また何より慰霊碑の文面にも感動しました。23名の "勇士" を称え、御霊みたまに哀悼の誠を捧げるとともに、さらには "日米両国の友好と世界の平和を希求します" とは何と崇高な心の持ち主なんだろうか。
これでは遺族ならずとも米軍基地関係者までも感激するのは分かります。「日本人の高い品格と日米の友好の絆を表すもの」と最大級の賛辞が寄せられるのも分かる気がします。
国と国とが対立をする中で人が人を殺すのが戦争だとしても、人と人が憎しみ合っているわけじゃない。人と人とは最終的には "心" を持った人間同士なんだということを教えてくれた今回のニュースでした。
20日当日の除幕式の様子はニュースで取り上げてくれると嬉しいのですが。是非見てみたい気がします。